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深深の意味深(みしんのいみしん)

浅学非才の輩による四方山批評

『プシュケの涙』読了につき

 

 昨日3月4日は土曜日だった。

 私ことみしんは前日の飲み会(同期達の愚痴大会)から帰宅したのち、何を思ったのか午前3時まで起きてヨロズのヨシナシゴトを続けていた影響か、土曜日の朝午前7時半、遠き故郷はおかんの代わりにスマートフォンが奏で立てる「起きろ」のメロディに眠い眼をこすりながら起き上がるなり左右の眼球へ目薬を一滴ずつ垂らし、口の中とも頭の中ともつかぬ意識と現実の境界でもぐもぐ「えいやあ」と気合を入れると、嫌がる脳みそを無理に叩いて全身の筋線維へ鞭を打たせ、怠い体をなんとか稼働させたのであった。

 

 

 十数年も前から私はひどい花粉症を患っていて、例年のことながら、この時期はすでにかなり厳しい。

 二週間ほど前に医者へかかって薬を処方してもらい、その時に「翌二週間後――つまり昨日――もう一度様子を診てから追加で薬を出しましょう今日と同じ9時でいいですね」と言われていたため、二度寝を決め込むことができなかった。無論、先の点眼液は飛び交う害毒、花粉への結界である。

 

 車を転がして10分ほどの場所にある総合病院から処方箋を握りしめて薬局へ向かい、なかなかの金額を毟られた後は華の土曜日にもかかわらず何も予定がない残念な独り身の私。

 どうせ残念ならとことん残念になってやろうと、その足で20分ほど転がした先にあるパチンコ屋へ向かうと、ほどなくしょんぼりした顔で店から出てきたのである。左手には車のキー、右手に握りしめるのは4000円のオランジーナであった。

 

 残念極まる結果に終わった私が帰宅したのは15時ほどか。

 1パチで4k負けはさすがに堪え、何もやる気が起きない。

 仕事人はⅣじゃなきゃだめだな――そのようなことをぼーと考えながら、時間だけが過ぎる。かなり突っ込まされたあとようやく確変に入ったはいいものの、直後小当たりで強制終了、時短も大敗北に終わり心折られた敗残兵である。何かしろと言う方が酷というものである。

 

 ぼんやりとPCデスクの前に座り天井を見上げてみると、PCデスクに定番のプリンタ用天板に飾られているゲーセンプライズ品の美少女フィギュアが蠱惑的に微笑みながらキュートなパンチラを披露してくれた。私は元気になった。

 

 余談ではあるが、視点より少し高い場所でフィギュアを飾るのは、フィギュアに対する礼儀である。なぜ世のフィギュアはパンティが作り込まれているのか。それは礼儀だからである。

 礼儀には礼儀をもって接しなければならず、即ちフィギュアのパンティは見なければならない。これは所有権者の義務であり、パンティが見えないような配置は不作為の犯罪である。

 

 

 私のPCデスク天板には三体の守護聖女が安置されている。

 初音ミク、モモ、そして那須原アナスタシアである。

 

 ちなみに、本来ここには宝生柚璃奈を加える予定であったのだが、残念ながら彼女はスケールどころかプライズすら実現されなかったため幻の布陣となり果てた感がある。

 なお、『おにあい』も『中妹』も大学の先輩から勧められ、アニメ化以前に原作を手にすることになった作品なのだが……コメントは差し控えたい。そのうち言及することもあるかもしれないが、本稿は『プシュケの涙』の感想がメインである。

 

 さて、この三体の他、プリンタ用天板は簡易的な書架として利用されている。

 ここには近く読みたい本、いずれ読みたい本、読まなければならない本、とりあえず保留の本など、課題として積まれている本が置かれていて、もちろん、その目的は常に目の届くところに手の届く範囲に置いておくということにあるのだけれど、その目的が達成されているかどうかは微妙なところである。

 

 そこで。

 土曜日であり、何も予定がなく。

 心もささくれていたので、久々に。目的の一部達成を試み手を伸ばした結果、果たしてその掌中に納まったのが、購入から何年も(5年半以上)積んでいた表題『プシュケの涙』なのであった。

 

 と、ここまで枕が1600字近くなっているのは脇へおいて。

 

 『プシュケの涙』は09年、柴村 仁女史が著し、電撃文庫から出版されたライトノベルである。柴村女史といえば『我が家のお稲荷さま。』だが、私みしんはこれをアニメでしか知らない。

 このため、女史の著作をちゃんと読むのはこれがはじめてということになる。

 

 さて、この『プシュケの涙』、「めっちゃイイ」というネットの前評判をみて入手したものであったため、期待値は非常に高かった。もう爆上げであった。

 

 めっちゃ暗い。なんだこれは。

 

 かつて御影 瑛路氏の『僕らはどこにも開かない』『神栖麗奈は此処にいる』『神栖麗奈は此処に散る』や、松村 涼哉氏の『ただ、それだけでよかったんです』を読んだ時に感じたくらぁい感覚が蘇る。

 

 以下、ネタバレ上等で書くので、未読の諸兄らはご注意いただきたい。

 

 

 結論から言えば、メインヒロインが既に死亡した状態で物語が始まる。なかなかであった。そして、サブヒロインは表・主人公の手から零れ落ちた状態で物語が始まる。なかなかであった。

 

 なんというか、ラノベとしてはパンチが効きすぎている。こんなヘビー級のストレートを二発もいただいてしまった日には並のギークメンタルでは耐えられないこと請け合いである。

なるほど、ネットに跳梁跋扈する一部ラノベソムリエ達の評価が高かったのはそういう理由だったかと膝を打つ。これはなかなか。なかなかである。

 

 構成がまたすさまじい。

 事件は本のページをまだまだ残した半ばあたりで真相が暴かれ、結末へ向かってしまう。

 「おうおうこの後どうするんだ、事件完結しちゃったぞ」と思いながら読み進め、最終頁にて行き着くのが、悔恨と絶望。僅かな憧憬。

 なんと残りのページすべてが故・ヒロインと物語の背景に割かれているのである。なんだこれは。心を殺しにきているのか。

 

 話自体、特に目を引くような仕掛けは用意されていない。

 ただただ儚く、哀しく、メンタルを削りにくるお話である。

 

 書籍版SAOの2巻、最終幕。サチの録音データの前に咽び泣くキリトの背中。

 あれが、一冊の半分を占めるようなものである。地獄か。

 

 総体として、やばいラノベであった。

 もちろん、悲劇が嫌いなわけではない。が、これは私の趣味に合わなかった。

 お涙頂戴の見せ場が用意されているでもなく、盛り上がるところもなく、ただただ儚いお話であった。

 もっとも激しいシーンは、表・主人公と裏・主人公が美術室にて相対し、殺し合いを演ずる場面である。斬って斬られたその果て、最終的に彼の出す結論までの描写は極めて完成度が高い。

 が、それ込みでもやはり暗く儚い。哀しい。ラノベじゃないよこれ空気重いよ全然ライトじゃない。

 

 そんなこんなで読了したので、私はラブコメさんとファンタジーさんに逢いにいこうと決意した。

 今日は日曜日。そしてもう夜中で、寝て起きれば仕事である。

 

 私の場合。仕事の気力は、ラブコメファンタジーから湧き出てくるのである。