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深深の意味深(みしんのいみしん)

浅学非才の輩による四方山批評

『君の名は。Another Side: Earthbound』雑感―半神はカタワレ時に夢を見せるか―

君の名は。 映画 雑記

 カタワレ時とはなんだろうか。

後ほど、考えてみたいと思う。

 

さて。

君の名は。を観たすぐ後。

つまり、前回の記事を書き上げてすぐのことである。

 

どハマりした知人が、ビジュアルガイドブックと、表題の角川スニーカー文庫から出ている、加納新太氏著『君の名は。Another Side: Earthbound』をポチっておった。

 

もちろん、みしん即座に土下座した。

なんならビジュアルガイドブックは持ち主より先に読んでしまった。(心の広い男である)

 

 

さて、このスピンオフというか、別冊小説は、完全に映画本編の補完小説である。

 

全体は四章、四つの短編で構成されており、主人公が異なる。四つの話はどれもがヒロイン三葉を客観視しつつ各人の思いを描写する形をとる。

 

一章は瀧、二章が勅使河原、三章が四葉、四章が宮水俊樹(三葉の父、町長のおっさん)視点である。

 

正直、四章は読んでいて驚いた。この短編集の最終章を飾るトリで、あのおっさんが語り手というのにはいささか意表を突かれた感があった。

 

ただ、読み終えて、納得したのも確かである。

この本は、映画で語られなかった、しかし語ってほしかった部分が詰まっていた。

 

一章は、「もっと『君の名は。』の世界が観たかった!」という、劇場の観客の心のアンコールに応えた内容になっている。

瀧が三葉の体に入って、何を考え、何をしたか。欲しかった答えが、おかわりがトイレ以外の部分についておおよそ描かれている。

普段、神楽をたおやかに舞う三葉の身体で、ムーンウォークを乱発しながらマイケルを踊り狂う瀧の情景は想像しただけでにやりと笑みが浮かぶこと請け合いである。

 

二章は、「穏やか」な印象を受ける勅使河原の、内面の熱い思いの丈がぶちまけられる内容になっている。

さびれた町と運命を共にする覚悟を決めた、腹の据わった男の滾る情熱を描く。ある意味、瀧と勅使河原の、友情の物語である。

 

確かに、劇場でも彼の熱さは知ることはできるのだ。

普段は人の好い、おおらかな男子という風体だが、町を救うために、あやふやな瀧の言葉一つで、人生を懸けて(横領、器物破損、下手をしたらテロ扱いの大事件の主犯格である。刑法典からどれだけのボーナスがつくかわかったものではない)あれだけ奔走してくれる人間が、熱くないわけがないのだ。

ただ、その内面を知る機会が、劇場では我々に与えられなかった。

そこを、勅使河原という男を。しっかりと見せつけてくれるのが、この二章である。

 

男が男を信じるとき、それは、互いの想いが共鳴した時なのだ。

 

三章は、「宮水」を掘り下げる内容だった……はずなのだが、なんだろう。

この文章を書いている前日に読んだはずなのに、最後のシーンしか思い出せない。

 

とにかく、四葉ちゃんはカタっぽがワレてラリったためにチェンジして、結果おねえちゃんが大好きって話だったはずである。

 

四章。

これは良かった。

 

四章は、「君の名」が――将来、ある男の子が、死に物狂いで探すことになるその名前が――ある女の子に名付けられる、その結びを、因果の糸を描き切った短編である。

 

むろん、この作品のテーマのひとつは、「結び」であろう。

仏教では「因果」と解釈されることもある、平たく言えば、風と桶屋とバタフライエフェクトと運命論の概念である。

 

なぜ、「君の名」が三葉なのか。

なぜ、結びの糸を手繰りよせた瀧と三葉は、救うことが、救われることができたのか。

そのはじまりから結末までを、劇場ではただただ「敵役」に押し込められたおっさんが、知られざる彼の信念と共に吐きだしつくす。

 

彼もまた、間違いなく。自らの半身を。そして、亡き妻の半身を。

血を分けた、カタワレを。娘の中に、見出したのである。

 

 

この作品のテーマ、そして、キーワードのもうひとつに、「カタワレ」がある。

「カタワレ時」と呼ばれ、かたわれという音は、片割れを想起させる。

 

劇中では、我々受け手にこの「カタワレ時」を認識させるため、黄昏、誰そ彼、たそかれ、彼は誰、かはたれ、逢魔が時など一連の単語解説にカットを使うなど、かなりしっかりと印象付けていたので、間違いなく、この作品の根幹にかかわるキーワードなのである。

 

ではなぜ、糸守は夕刻のことを「カタワレ」と呼ぶのか。

 

上記「黄昏」から「逢魔が時」まで、全てこの現実世界では正しく日本語として存在するが、「カタワレ時」「かたわれ時」「片割れ時」は、『君の名は。』という作品世界での、糸守町周辺でのみ用いられる、限定的な造語である。

 

まず、夢の無い結論から言ってしまえば。

それらしい連想ゲームとアナグラムを経て、物語のコンセプトに合致する「かたわれ+時」という単語が採用されたのではないか。

これは作品の外、創作段階からみた推測である。

 

少し想像の羽を伸ばしてみるに、「糸守」が夕刻を「かたわれ時」と呼ぶようになった仮説も無理やり捻り出せなくもない。

 

君の名は。Another Side: Earthbound』四章では、元来、宮水神社が祭神として星神を祀っていたが、約1000年周期で地球を掠める彗星が古い時代の糸守に落ち、人々が星神への信仰を取り換えたことが示唆されている。(ただ、これは最終的に宮水二葉の「勘」によって否定されており、正確に宮水神社がどのような系譜を辿ってきたかについては謎のままとされている)

 

さて、この1000年前。日常生活で「かはたれ」という単語が用いられていたはずである。(と思うが、さすがに自信がない。私は古文の専門家でもなければ、歴史学者でもない)

 

そして、1000年前も彗星本体が落ちたわけではなく、落ちたのは欠片であったのだから、やはり劇中と同じく、人々はその剥離を目にしたことだろう。

 

もしそれが、夕刻であったとしたら。

その土地では、ケを祓うという意味を込めつつ、剥離した神の雷が降りた時、と捉え「かはたれ」から「かたはれ」への語形変化が起こったと考えることができないか。

できないか。

ちょっと厳しい気がする。

 

 

さておき、これはひとつずつに意味をリンクさせた、壮大な舞台装置でもある。

 

まず、「黄昏」「逢魔が時」は、あらゆるシーンで強く我々に訴えかけてきた、夕暮れのシーンを引っ張りこんでくる。

たとえば、奥寺先輩とのデート終了シーン。

たとえば、瀧がはじめて結びに触れ、ご神体を眺めるシーン。

たとえば、瀧が滅びた糸守へ辿りつくシーン。

そして、たとえば――

 

我々は、夕暮れ時に、なにか不思議な怪異に出会うのである。

 

そして、「誰そ彼」「彼は誰」は、この作品の主題でもあり、「あなたはだあれ」という意味だけでなく。おそらく、この作品の想定する、もっとも受け手となってほしいであろうメインターゲット層の多感な少年少女達にも重なる、「お前は」「自分は」誰なんだろう、という問いかけを呼び込む。

 

もちろん、初っ端からノートに書き込まれる「お前は誰だ!」という、いささか攻撃的な「君の名は」から、物語が進むにしたがって、惹かれていくがゆえの「君の名前が知りたい!」という「君の名は」への変化は大いに見どころである。

 

良くも悪くも、これは少年少女のための物語なのである。

おぢさんは悲しいゾ。

 

そして、「カタワレ」は。

先述の、彗星の剥離たる「片割れ」を示すにとどまらず。

半身を、片割れを呼び込むのである。

口噛み酒は、己が魂の半分を移す小道具として活用されており、いわば、「かたわれ」を最大限に生かすための舞台装置なのである。

 

それは、劇場はもちろん、今回私の読んだ小説でも、随所で描かれるが、なんといっても。

絶対に外せないのが、映画のクライマックス、二人の邂逅にある。

 

場所はご神体のすぐ傍。

「黄昏」時、魂の半分、互いの半身を「カタワレ」を共有し、結びに引かれあった二人は、組紐を通して「初めて」「再会」を果たし、「君の名」を認識し合い、そして忘れる。「たそがれ(夕暮れ)」は「かたわれ」を引き寄せたが、「かたわれ」ゆえに不完全で、「かはたれ」なのか、わからなくなってしまうのである。

 

「逢魔が時」は、互いの顔がうす暗くてよくわからず、「誰かわからない」、ゆえに、怪異に出逢いやすい時間のことを指すのであるから、この構造は、本当によく作られている。

 

ダブルミーニングなんてものじゃない。三重にも四重にも意味が込められ、絡み合っているのだから、まさに組紐の世界、このお話のテーマそのものである。

 

それが、更に緻密に描かれるのが、この小説の、第四章なのである。

いやあ、良かったね。

良かったと思いました。

 

 

 

こんなもの見せられても。

 

私の青春は、もうないんだけどな。